カルロス・ゴーン会長の逮捕は日本中に大きな衝撃的を与えるニュースでした。
こんにちは! 松田軽太です。
カルロス・ゴーン氏はその巨額の報酬を不正していたという罪に問われていますが、そもそも経営危機の日産を奇跡的にV字回復させたのがカルロス・ゴーン氏です。
ということで、カルロス・ゴーン氏が再生する前の日産について興味がわきました。
そこで「日産 その栄光と屈辱」という本を読んでみました。
この本はノンフィクションとして書かれていますが、大きな流れとして日産石原俊社長と塩路一郎労組の対立という構図で描かれています。
著者の佐藤正明氏は長年、日経新聞で自動車業界を担当してします。日産自動車についても40年の長きに渡り取材し続けている人なのです。
日産には三名の天皇がいた
この本の主要な登場人物は三名です。
川又会長
塩路会長(自動車労連)
石原俊社長
後にこの三名は「日産には三名の天皇がいる」とまで言われる程の大きな権力を持っていたのです。
まず時代背景として、1970年代は日本はモータリゼーションという大きな流れの中で自動車産業が大きく発展しようとしていた頃です。
そして今では考えられないくらいに労働組合が大きな力を持っていました。
巨大な力を持った労働組合
日産自動車も過去に大きな労働争議を経験し、川又会長が社長時代は塩路会長と強調路線で会社を運営していました。
塩路会長は会社の生産性を上げることで会社の業績が上がり、ひいては労働組合員の生活も向上すると考えていました。
そのため経営に対しても厳しい視線を向け、時には経営対しても厳しい注文をつけました。
なぜ労組組長の塩路氏がそれほどまでの大きな力を持っていたのかというと、日産自動車の従業員(組合員)7万人の代表であり、ストライキを起こして工場の生産を止めることも可能だったのです。
しかし石原俊社長時代になると、労働組合との関係性は大きく変わります。
打倒労働組合に燃えた石原俊社長時代
石原俊社長にしてみれば、労働組合は経営権もないくせに会社の経営に口を挟んで邪魔する厄介な存在に見えたのです。
塩路会長はその強大な権力で人事や新車開発や事業戦略にまで影響を及ばしたとされます。
なにしろ労組が承諾しなければ新型車を発売することさえできなかったのですから。
川又会長が社長時代の労資協調路線は、イケイケな性格の石原俊社長からすれば「日本を代表する自動車会社の日産経営陣が労働組合の顔色ばかりみて情けない」と見えていました。
そこで石原俊社長が塩路会長を失脚させるために、ありとあらゆる手段を講じたことが描写されています。
これらを読むと「本当に日産のような一流企業が、こんな卑劣なことを画策するのか?」とにわかには信じらないことが描かれています。
例えば塩路会長に関する怪文書の配布や、写真週刊誌のフライデーにスキャンダルの捏造させたとか、今では考えられないような悪質な手を次々と仕掛けた様子が描かれています。
ことごとく裏目に出た経営戦略
また当日の日本の自動車業界は国内シェアをトヨタ自動車と日産自動車が二分していました。
トヨタ自動車が37%、日産自動車が30%と拮抗していたのです。
日産自動車の目下の国内事業の目標はトヨタ自動車からシェアを奪って日本一の自動車会社になることでした。
石原俊社長時代、日産自動車は他社に先駆けて「グローバル10」という世界シェア10という目標を掲げた国際化プロジェクトを推進します。
・アメリカでの小型トラックの生産
・アルファロメオとの小型車の共同生産
・フォルクスワーゲンとの提携
・英国での自動車生産
現在、トランプ政権は中国と貿易で揉めていますが、この頃は日本車がアメリカ自動車産業を脅かすそんなということで、日米自動車摩擦と言われていたのです。
そんな事情もあって、確実に儲かるアメリカでの乗用車生産ではなく、別の路を探っていたのかもしれません。
しかし残念ながら、これらの国際化プロジェクトはどれもこれも成功せず、赤字を垂れ流すことになりました。
本書の中で著者の佐藤正明氏は
「石原俊社長時代のガラクタプロジェクトが日産を破壊した」と厳しく批判しています。
1980年代後半から1990年代前半は、間違いなく日本車が世界一の性能を誇っていたと言えます。また日本経済もバブル経済が絶頂期で、とにかく物を作れば、作っただけ売れて儲かったのです。
そんな経済状況なので赤字を垂れ流す国際化プロジェクトもどうにかなっていました。
マスコミも「グローバル経営で先行する日産自動車」といったようにはやし立てるので、収益が上がらなくてもメンツがあるので退くに退けません。
そうこうしているうちにバブル絶頂は弾け飛び、赤字を垂れ流す国際化プロジェクトは日産自動車の経営に大きな打撃を与えました。
1990年代の終盤には、日産自動車はいつ倒産してもおかしくない財務状況に陥っていました。
日産にトドメを刺した英国進出
とくに話を拗らせたのは英国での乗用車生産でした。
当時、英国は失業者が300万人を越え、英国は海外からの乗用車産業の進出を希望していました。
しかし英国はアメリカでの販売台数の1/10にしかし残念ながら、これらの国際化プロジェクトはどれもこれも成功せず、赤字を垂れ流すことになりました。
日産自動車としては英国に乗用車生産工場を作っても大きく収益にはつながらないのです。
なにせ試算では10年経っても黒字化の目処が立たないのですから。
しかし英国政府や日本政府まで巻き込んだ大騒動になり、今更、日産自動車としても「やっはばり英国で乗用車作っても儲からないから辞めます」とは言えない状態まで追いつめまれます。
そんなこんなで経営はグチャグチャになり、国内シェアはトヨタ自動車を追い越すどころか30%あったシェアは25%まで落ち込み、国際化プロジェクトは赤字を垂れ流し、もはや日産自動車は借金まみれになっていました。
新聞などでは「日産は世界4位の自動車会社」と報道されてましたが、なんとその赤字額は2兆円を超えた巨額に膨れ上がっていたのです。
もはや自力再建は不可能といったところまで追い詰められた日産自動車は海外の自動車会社との提携を模索しました。
最後に救いの手を差しのべたルノー
まずはアメリカを代表する自動車会社であったクライスラーに打診しますが、当時のクライスラーはダイムラーとの提携で手こずっており、なかなか日産自動車との提携までには漕ぎ着けませんでした。
次にフォードに打診しますが、フォードは日産の巨額な赤字額を知ると提携には慎重になりました。
当時の日産自動車の赤字は、世界中の自動車会社がドン引きするほどの赤字会社だったのです。
しかし、そんな日産に救いの手が差し伸べられました。
それがルノーだったのです。
当時のルノーは長らく続いた赤字をどうにか構造改革で乗り切りました。
ルノーの構造改革を指揮したのが、カルロス・ゴーン氏だったのです。
しかし大規模なリストラを行ったため、技術者不足に陥り、再建は果たしたものの、これからの競争が激化する自動車業界で単独で勝ち続けるのは無理だと悟っていました。
そこで技術力には定評のある日産と提携することを望んだのです。
またルノーの売り上げ台数の規模は日産の1/4程度です。
かつての日産からすればルノーは格下の存在です。そこも「栄光の日産」というプライドからすれば不本意だったでしょう。
もはや逃げ場のない日産はルノーと提携する他に道はありません。
なんせ倒産寸前まで追い詰められているのですから。
当時の日産の社員は5万人で、関連企業の家族を含めると50万人が日産という企業との関係性で暮らしているのですから、日産自動車の社長の責任の重さは計り知れないものがあったでしょう。
カルロス・ゴーンによる奇跡的なV字回復
そして1999年にカルロス・ゴーン氏が社長に就任すると、「日産リバイバルプラン」を掲げ、4年目の2003年に日産は巨額の借金を返済し、V字回復を成し遂げました。
その大胆はコストカットは当時、驚きをもって新聞報道されました。
何もしがらみがないカルロス・ゴーン氏だからこそ出来たリストラだったのです。
カルロス・ゴーン氏は経営再建にかけては天才的な手腕を発揮する人物なのです。
急速に再建を果たした日産ですが、その後もリーマンショックや東日本大震災いった難局を乗り越えました。
それらの輝かしい功績からカルロス・ゴーン氏は大きな権力を手に入れるのです。
そこから18年後、まさかカルロス・ゴーン氏が逮捕されるとは夢にも思わないでしょう。
それも有価証券報告書の虚偽記載という疑惑ですから驚きです。
しかし、これまでの日産自動車の歴史を振り返ってみると石原俊社長時代といい、大きな権力を持つと、私利私欲に走ってしまういう歴史を繰り返しているようです。
なんでそうなるのか不思議ですが。
いずれ今回のカルロス・ゴーン氏の事件も究明されることでしょう。
その時が来るのを待ちつづ、これからの日産がどのように舵取りされるのかを見守りたいと思います。
カルロス・ゴーン 国境、組織、すべての枠を超える生き方 (私の履歴書)
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