えらいてんちょう氏の著書『しょぼい起業で生きていく』を読んでみました。
この本、いわゆる日本社会で常識となっている「一流企業で雇われることが安泰であり豊かに生きていく」という既成概念を打ち壊される思いがしました。
こんにちは! 松田軽太です。
「えらいてんちょう」って何者
この本の著書は「えらいてんちょう」といいます。
ここだけ見ると、ふざけた名前ですよね。
僕が初めて「えらいてんちょう」という名前を認識したのは、2019年1月ごろの『脱社家サロン』事件でした。
ご存知の方も多いと思いますが、『脱社畜サロン』とは有名ブロガーのはぁちゅうさんとイケハヤさんと正田さんが共同で運営されていたオンラインサロンですが「正田さんの経歴が怪しい」とえらいてんちょう氏が発したことで、ネット上は騒然となりました。
その騒動がキッカケで「えらいてんちょう」という名前が記憶に残りしました。
その後 えらいてんちょう氏 のYouTube動画を見かけたのですが、いろんな人に議論をふっかけた内容だったので「あれ?この人、ヤバい人だったのね」と思い、それ以上は興味を持ちませんでした。
しかし、それから数ヶ月後、たまたま出先で時間調整していた本屋で『しょぼい起業で生きていく』という、なんとも緩いタイトルの本を見つけました。
そして、驚いたことに、その著者が「えらいてんちょう」だったのです。
現代の常識とは真逆の考え方
『しょぼい起業』とは、文字どおり、大きな元手をかけずに、その地域で自然に根付いていく生き方です。
与沢翼氏のように『秒速で億を稼ぐ』ような大儲けするという考え方ではありません。
むしろ、そこそこ生きていけるくらいに、こそこそ稼げればいいんじゃない?という、ある種のノマド的な緩い生き方を提示しています。
それって現代の常識とは真逆の考え方ですよね?
なぜ雇用されることが正しいのか?
昨今『AIの発達で仕事がなくなる』という危機感を煽る記事をアチコチで見かけます。
「数年で事務職はなくなるから、これからはプログラミングを学習せよ」といったように。
それらの発想は「雇われ続けるための防御策」です。
けっして「プログラミングが好きで、やってみたいからやる」ではなく「今までの仕事がなくなりそうだから、なくなりにくい仕事にチェンジした方が良い」という損得勘定が動機になっています。
でも、それって本当に楽しいのでしょうか?
『仕事』というものは嫌なことを我慢しながらやらなければならないのか?
世の中には低賃金で拘束時間が長く、労働基準法なんかガン無視しているブラック企業が存在します。
しかし、ブラック企業とまではいかなくても、法的にはギリギリOKでも黒に近いグレーな会社も多いでしょう。
そもそも人はなぜ『ツマラナイ仕事を我慢しながら働かなければならない』のでしょうか?
ご飯を食べていくためには、家族を養うためには、毎月固定の給料をもらうためには、人間はやりたくない事を我慢し続けなくてはならないのでしょうか?
企業に勤められなければ落伍者なのか?
世の中には、漫画『島耕作』のように大企業に入社して、エリート街道をひた走っている人もいるでしょう。
それを人生の成功者と考えている人はたくさんいるでしょう。
では成功者の条件とはなんでしょう?
・億超えの大豪邸に住むことでしょうか?
・高級外車を乗り回すことでしょうか?
・高級ブランドの服や時計を身につけることでしょうか?
多くの人にとっては、こういう価値観が分かりやすいのも事実です。
バラエティー番組でも、芸能人の大豪邸を紹介しては「羨ましい」と感想を言うだけの番組があるくらいです。
しかし、世の中には「通勤が辛い」という人もいます。あるいは「人間関係が辛い」という人もいます。
そして世の中にはこれらの人たちを「世間を舐めている」と責める人も少なからずいます。
反面、ダイバーシティという名で「多様性を認めよう」と言われています。
しかし、ダイバーシティの中に「通勤が辛い」は含まれていないように感じます。
戦前は自営業の方が多かった
今でこそ「働く」ということは「企業に雇用される」というのが、ごく普通の考え方になっています。
しかし昭和30年代の戦前は自営業が6割近くを占めていました。
町中には八百屋や魚屋や雑貨屋や肉屋といった小さな商店が軒を連ねていました。
しかし戦後の高度経済成長を境に「働くこと=企業に雇われること」に摩り替わっていきました。
まぁ、モノを作れば何でも売れた戦後の高度経済成長期であれば、雇われているだけで、家が買えて、子供が育てられて、豊かな老後を過ごすというライフプランが成立しました。
それが終身雇用という名の人生を会社に売り渡すという働き方です。
今や終身雇用は成立しない時代です。
現に富士通やNECといった大手企業が45歳をバンバンとリストラしている時代ですから。
また経団連の会長自身が「終身雇用は維持できない」という認識をしています。
つまり、親世代の常識だった「大企業に就職すれば一生安泰」というのは、もはや幻想とも言える時代になったのです。
コンビニオーナーという立場の蟹工船
企業に就職しないのであれば、独立自営という生き方もあります。
独立というとすぐに思い浮かぶのはコンビニ経営ではないでしょうか?
今、人手不足によってコンビニオーナーは運営の危機に陥っています。
コンビニオーナーは独立した事業主です。
例えばセブンイレブンの看板を掲げてコンビニを運営していても、セブンイレブンの社員ではく、独立した事業主という契約になります。
それをフランチャイズ契約といいます。
しかし、独立した事業主でありながら、コンビニオーナーには経営の自由が少ないと言わざるをえません。
・昨今、問題となっている24時間営業の強制
・商品仕入れの不自由(コンビニ本部からしか仕入れできない)
・仕入れ値の不透明
(店舗ではいくらで商品を仕入れて、いくらの利益が出たのかを把握できない)
・莫大な廃棄処分費の負担
・利益の半分以上をコンビニ本部に吸い取られる高額なロイヤリティ
・欠品は販売機会のロスだからと、廃棄してでも、過剰に仕入れさせる
・本部の独断で近隣に同一ブランド店を出店させるドミナント戦略
・社会インフラという名目で、どんどん増える新しいサービスへの対応
・たとえ売上が大きくてもコンビニ本部の意向に沿わなければ契約更新させないという恐怖政治
と、これらの条件をみていくと、コンビニ経営というのは、およそ独立した事業主とは思えません。
それでもコンビニオーナーを目指す人が減らないのは、会社を早期退職させられたり、追い出し部屋へ追い込まれてリストラされたり、と様々な理由でこれからの生き方を模索した人たちが「いっそ独立した方が」と考え「しかし自分は小売業の経験はないし」と迷った時に「コンビニであれば、コンビニ本部が運営を手厚くサポートしてくれるし、それにコンビニ本部はどこも大企業だから社会的に信用できるハズ」と信用した結果が、この蟹工船のような24時間労働なのです。
果たして独立という希望を背負ってコンビニオーナーになった人たちは、本当にそんな生活を望んでいたのでしょうか?
コンビニオーナーの苦労について書いたブログがありますので、こちらもお読みください。
巨大化したコンビニ本部
コンビニ本部は毎日、各店舗から数百億円の売上金を集金しています。
その額は年間では数兆円です。
ここまで大きな商売になったコンビニですが、そもそもコンビニという商売の形態が始まったのは1970年代です。
バブル経済前の経済成長期に始まりました。
その間、巨大スーパーマーケットはバブル経済の崩壊と共に経営不振に陥りました。
そして小さなお店の集合体であるコンビニが今では大きな利益を上げるようになりました。
コンビニという商売はブランド名が同じでも、その地域によってお客さんの層が異なります。ということはお店ごとに品揃えを柔軟に変化させる必要があります。
そのような変化を捉えられるように、コンビニではお客さんの年齢や性別や天気といった顧客属性をPOSシステムでデータ化し、ビックデータ分析により見える化することに成功しました。
これらのデータ収集と分析にも多額のシステム構築費用が掛けられています。
しかし、このようなデータ収集を欲しているのはコンビニ本部だったのではないでしょうか?
コンビニオーナーであれば、お客さんの状態は肌感覚で分かっていたのではないでしょうか?
本来は地域に根強いた小さなお店であるコンビニも、コンビニ本部という巨大化した組織に翻弄されることで、不自由になったように感じます。
「しょぼい起業」だから小回りがきく
一方、しょぼい起業は小回りがききます。
しょぼい起業の基本は「お店を開店しておく」ということだけです。
お店というのは開いていることに意味があり、開いていると、なんだか分からなくても人はそのうちに集まりだし、人が集まるとなんだかかんだと謎の売上がたち、そうこうしているうちに、いつしかお店という体をなしていくのです。
肝心なのは「なんとなく居心地がいいから、なんとなく行ってしまう」という緩い心地よさなのです。
実は『しょぼい起業』を読み始めた時には「このAIだのIoTだのとデータ分析が重要な時代にそんな生ぬるい経営なんて成立するハズがないだろう」思ったのです。
あらゆる情報を収集してデータ分析し、潜在的には存在していたが今まで見えなかった需要を掘り起こすことが、これからの時代の企業活動のあり方だと思い込んでいました。
しかし『しょぼい起業で生きていく』を読み進めるうちに「しょぼい起業って、いろいろな性格や特技を持った人間の特徴を活かすことができる、ダイバーシティではないか?」と感じたのです。
昨今の社会はコストダウンだとか生産性向上まとか、とにかく無駄をトコトン絞り上げることで効率化をし、効率化ができない人は業績に貢献できていないと無能者扱いします。
しかし本当に無能なのでしょうか?
たまたまその職場や会社や事業に対して適性がなかっただけではないでしょうか?
それだけのことなのに、必要以上に個人をあげつらい責め立てて蔑む世の中の方がどうかしているのではないでしょうか?
当初、胡散臭いと感じた『しょぼい起業』の方が、実はより人間らしい生き方なのではないかと感じたのです。
会社の仕事ごときで死を選んではいけない
世間では働き方改革と叫ばれてはいますが、まだまだ準ブラック企業も多くあるでしょう。
そしてそんな職場環境で追い込まれることで、自死を考えてしまう人もいるかもしれません。
学校と職場が違うのは、学校は数年我慢できれば卒業できますが、職場は定年まで数十年かかります。
そして「あと数十年もこの苦痛が続くのであれば、いっそ死んでしまった方が・・・」と考えてしまうこともあるでしょう。
しかし会社は辞めることができるのです。
大企業であれば親や親戚は「せっかく入った大企業なんだから、途中で辞めたらもったない」とか「失業なんかしたらみっともない」と世間体を気にするかもしれませんね。
でもあなたの命に関わることであれば、話は別です。
大手広告代理店で起こった上司のパワハラによって若い女性社員の自殺が大きなニュースになりました。
ではその上司はその後にどうなったかというと、結局、不起訴となりました。
世の中、そんなものです。
であれば、そんなバカな上司とバカな社会のために、あなたが命をかける必要などないのです。
「でも会社を辞めて生きていけるのか分からない」と感じたと時は『しょぼい起業で生きていく』を読んでみて下さい。
きっと新しい生き方を見つける手助けになるハズですから。